月光夜話

「わたしは詩人」 鈴木 博文

時計は3時を回っていた。木々が少しざわつき始めた。
このあたりは海が近いので、湿った風が強い。頬がじっとりとしてきた。
わたしは敢えて静寂を破るように言った。

「そういえば楢林くんから電話があったよ」

彼女は両手でマグカップを包むようにして言った。

「どうせろくな用事じゃないんでしょ、あの芸術家きどりのドラ息子のことだから、
鉄屑をもっと屑にしたから見て下さいとか、そんなことでも言ってきたんでしょう」
「いや、そんなことじゃないんだ、今夜、権助橋で月を見ないかだってさ」

彼女は口に含んだコーヒーを、プッとマグカップに戻して、咳き込んだ。
かなり苦しいらしく、拳をみぞおち辺りを何度も何度も叩いている。
しばらくして落ち着いたのか、わたしの顔をじっと見て言った。

「月って、太陽や地球の月のことなの」
「あぁ」
「なんて風流な。あの人にそんな趣味があったなんて」

と言った途端に、彼女はそのまま床に倒れて死ぬほど笑った。
わたしは少し楢林くんがかわいそうに思えてきて言った。

「いや、今夜の月はいつもの月と違うらしいんだ。
彼は随分と自信ありげに言っていたんだよ」

わたしは自分がやけに真剣になっていることに気づいてはいたが、
もう引き下がれない状態だった。
彼女の脳波はそれを見抜いたのか、鋭くことばを発してきた。

「あなた、まさか行くんじゃないんでしょうね。月はいつも月なのよ、
三日月になったり満月になったりするけれど、地球がいつも地球であるように、
月はいつでも月なのよ」

わたしに反論はなにもなかったが、そう言われれば言われるほど、
権助橋のいつもと違う月を見たくなった。

「まあ、騙されたと思って行ってみるよ、きみも一緒にどうだい」
「わたしは結構です、明後日が原稿の締切だから、今夜も徹夜だわ、
そんなことよりなにか食べましょう」

彼女は犬飼花子という漫画家である。青年コミック誌に数本の連載を持っている。
そのギャグセンスは美醜入り交じったかなり残酷なもので、
何度か評論家に叩かれているが面白いものか面白くないものか、
どちらかと言われれば、それはとても面白いものの部類に入るだろう。
わたしはチュルチュルと彼女が作ったスパゲッティをすすりながら、
今夜の月のことを思った。

およそ1時間前の午後2時、話はそこから始まった。
屋根の上の殺人者、鴉達が一斉に飛び立ってしまうような、
けたたましい電話のベルで目を覚ました。
横で眠る彼女は、茹でたての車エビのように丸くなって、
一瞬、声にならない声で唸ったけれど、すぐにまた深い眠りに突入していったようだ。
とにかく彼女は睡眠を邪魔されることが嫌いだ。わたしは生まれついてのでかっ鼻だった。
10歳の頃、耳鼻咽喉科に行ったら、医者が母に言っていたことを今でも憶えている。

「おたくのお子さんの鼻丈は、もうすでに大学生なみですよ」

母は喜んでいいのか、削ってもらったほうがいいのかわからないまま笑っていた。
わたしは待合室にある、所々穴のあいたビニール張りの長椅子に腰掛けて、
足をぶらぶらさせてそれを聞いていた。
その帰り道、わたしは不安に思った。
今、大学生並ということは30歳や40歳になったらどうなってしまうんだろうと。
巨大な男根を顔面中央にくっつけたような丹沢の天狗になってしまうのか。
ふと「男根」とは考えなかったにしても、そんな風な奇怪なイメージは自分の身に当てはめてしまった。
その巨大な鼻は、冬になると先端の方が少し赤くなった。
木枯らしの中でそれに触れると、かなり冷たい。よく鼻だけが意識を失っていた。
そんな鼻だから、わたしはいつも右手の人差し指で鼻をこするようになった。

30歳を過ぎて、心配した天狗鼻にはならなかったが、いびきがひどくなった。
睡眠を邪魔されることを最も嫌う彼女は、わたしの巨大な鼻が「ぐがあー」とやりだすと、
肘打ちをわたしのこめかみにぶち込む。
いびきをかいている睡眠は日本海溝より深いのに、わたしはその一撃で気絶する。
そしてより深い海溝へと沈没してゆくのだ。


つづく・・・

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